ウォーレン(菰野町郷土資料館)

E.I.H(ホースマン)社製。パスポート未確認。ドレスと帽子は戦後新調。

名前:ネブラスカ書簡で判明

送り主:ロードアイランド州ウォーレン婦人聖書協会(ネブラスカ書簡で判明)

配布先:千種村尋常高等小学校(現:三重郡菰野町立千種小学校)

歓迎会写真:現存(1枚)

ネブラスカ書簡:1通(児童総代 高等科2年 松澤よしゑさん)A479-24

守った人:小学校の女教師(河村瑞枝さん)


歓迎会写真(1927年) 伊藤千鶴さん提供
歓迎会写真(1927年) 伊藤千鶴さん提供

 ウォーレンは千種(ちくさ)村尋常高等小学校(現:三重郡菰野町立千種小学校)に贈られました。

 当時の小学校には講堂がなかったので、3つの教室をつなげて歓迎会を開いたそうです。会場が狭いためか、1年生は会場に入れずに校門の松並木に並んで、旗をふって人形の到着を迎えたそうです。(当時1年生だった伊藤末一さんのお話)

 人形の名前は不明でしたが、2009年にネブラスカ書簡から「ウォーレン」という名前が判明、送り主もロードアイランド州のウォーレン婦人聖書協会とわかりました。今も残っている三重の人形のうち、送り主が判明しているのはこの人形だけです。

河村瑞枝さん(伊藤千鶴さん提供)
河村瑞枝さん(伊藤千鶴さん提供)

 

守られた人形

 ウォーレンは戦争中に燃やされそうになりましたが、それを守ったのは河村瑞枝さん(1883年生まれ)でした。

 河村さんの孫娘である伊藤千鶴さん(1924年生まれ)に1997年に詳しく伺ったお話は、次のようなことでした。

 河村さんは千種国民学校で和裁の教師をしていました。ウォーレンは国民学校の裁縫室に飾ってありました。

 1943年のある日、河村さんは校長先生に命じられてウォーレンを職員室に持って行くと、校長先生は「この鬼畜米英が」と言いながら人形の服や髪を引きちぎってゴミ箱に捨てました。「人形には焼却命令が出ているので焼き場で燃やすように」と校長が言いましたが、河村さんはわざとその日は遅くまで学校にいて、暗くなってから人形を持って帰宅しました。服は破られたのでどうしようもなく、暗くなっていたので片方の靴も見つけられなかったそうです。帽子もかぶっていたのですが、なくなっていました。

 いつもより祖母の帰りが遅いので、迎えに行った千鶴さんは川原の道で河村さんと出会いました。河村さんは風呂敷に包んだ何かを抱きながら帰って来たので「何持っとるの」と聞いた千鶴さんに、河村さんは「言えやん(言えない)」と答えたそうです。家に帰ってから人形を見せてもらった時は、無残になった姿にとても驚いたそうです。河村さんは人形の修理を始めました。髪の毛が取れていたのでもともとの髪を拾ってきて膠(にかわ)で貼り付け、細かい柄の夏の端布で服を作りました。人形の箱は後で校長先生に頼んでもらってきたそうです。

 その後、1947年頃までは自宅の押し入れに隠してありましたが、その後は床の間に飾られるようになりました。寝かせた人形を起こすと「ママ―」と泣きましたが、20年ほどで泣かなくなったそうです。河村さんは晩年を、嫁がれた千鶴さんの家で過ごしましたが、1973年にNHKの番組「人形使節メリー」を見られて千鶴さんは人形を思い出し、実家の押し入れに入っていたウォーレンを河村さんのもとに連れて帰りました。

 河村さんが亡くなった後も千鶴さんの家で大切にされ、1983年に日本青年館で開催された「日米友情交換人形再会式」にも参加しています。現在着ているドレスは、ウォーレンが公の場に出るようになった頃に千鶴さんが作り直したものです。その時に作られた絵葉書(右の写真)が残っています。

 1999年に千鶴さんが亡くなった後も、ご家族が大切にされていましたが、2008年に菰野町に寄贈されました。

 

 寄贈後、ずっとケースの中で保管されていましたが、2022年よりケースから出して子どもたちがウォーレンを身近に見れる機会を作られたり、夏休みには「青い目の人形」学習コーナーを作られたりして、人形交流を子どもたちにより伝える取り組みが行われるようになり、とても嬉しいです。

グレースという名前は誤植です。1983年当時は名前が不明でした。
グレースという名前は誤植です。1983年当時は名前が不明でした。